Interview010
篠笛奏者 / 篠笛講師 / 音楽プロデューサー
狩野 泰一さん
―狩野さんは一橋大学商学部をご卒業されて、音楽家になられました。異色のご経歴ですね。
僕は、子供の頃から体が弱くて、食べてもすぐ吐いてしまうような虚弱体質でした。その苦しみを救ってくれるお医者さんは、まさにマジシャンでした。なので、本当は医者になりたかった。ところが、僕は色覚異常だったんですね。当時は、薬の色を見分けられない赤緑色弱だと医学部を受験できない。やむなく進路を変更、父に公認会計士は企業のドクターだからと勧められ、一橋大学を受験しました。
ところが、いざ大学で勉強をはじめてみると、この会計の世界が全然頭に入ってこないんですね。どうも僕には向いていない。いつしか、僕のエネルギーは小さい頃から親しんでいた音楽に向かっていきました。
僕は、5才からピアノを習っていましたが上達せず、その後中学の吹奏楽部でコルネットに転向しました。いわゆるラッパですね。関東大会常連の名門校でしたが、コンクールで金賞をとるための練習の日々、人間関係が嫌になって吹奏楽部を退部し、軽音楽部に入って今度はギターを弾きながら歌い始めました。ところが、この軽音楽部が不良の巣窟で部員が問題ばかり起こすので、部長として随分苦労しました。細かい事がだんだん面倒になって、ぶっ叩いて体で音楽をやる方が気持ちがいい、とドラムに転向しました。
高校を卒業する頃、姉の影響でジャズのレコードを聴き、衝撃を受けました。それからはジャズドラム一辺倒。もう会計に興味がなくなってしまった僕は、授業中だろうが何だろうが練習、練習のジャズ漬けの毎日。そうして、大学在学中にプロとライブハウスで演奏するようになりました。
―ニューヨークでの出来事が、その後大きな転機になるとお聞きしました。
一橋大学に現役で入ったら、学費が浮くので留学していい、というのが父との約束。せっかくだから、ジャズのメッカ、ニューヨークの大学に行こうと、4年生の時に留学しました。海外経験もありませんから、英語が通じなくて苦労しましたね。当時のニューヨーカーは厳しくて、助けてくれたのはみんなアジア系の友人でした。彼らとは、今でも一生の友達です。
そんなある日、友人から和太鼓の公演があるから一緒に行こう、と誘われました。現地でもジャズセッションにプロに混じって出ていた僕は、和太鼓なんて単純な音楽だという偏見を持ち、何の期待もせずに付き合いで会場に行ったのです。
しかし、そこでは信じられない光景が繰り広げられていました。リンカーンセンターの野外を埋め尽くす何千人ものニューヨークの観客が、涙を流して総立ちで「ブラボー!」と拍手喝采しているのです。「こんな感動的なものは見たことが無い」と。舞台にいたのは、日系の二世、三世の方々で、いずれもプロではありませんでした。昼間は医者や銀行員として働く傍ら、夜な夜な和太鼓を特訓したというのです。
楽屋におじゃまして、彼らの話を聞く事ができました。彼らは、見た目は日本人ですが、誰も日本語は話せませんでした。「アメリカでは差別され、憧れの日本に行っても、日系のアメリカ人はあまり親切にされない。一体自分達の居場所はどこなのか、自らのアイデンティティは何なのか、ずっと悩んで生きてきた」と言います。そんな彼らは、日本から来た『鼓童』の和太鼓公演を観て、「これしかない」と必死で和太鼓を叩き始めたというのです。
脳天をかち割られた気がしました。僕は、日本人でありながらジャズドラムを表面だけ真似して叩いている。そこには、地に足がついた何かが、自分がそれをする必然が、無いような気がしました。これは一からやり直しだと思い、僕の卒業後の進路はその時から変
わり始めました。そして、彼らの運命を変えた鼓童がいる佐渡に渡ろう、と心に決めたのです。
―そうして佐渡に渡ったのですね。
鼓童は、前身の鬼太鼓座から生まれた和太鼓の演奏集団です。当初は設立5年目でした。30人ぐらいが、佐渡島の廃校に一緒に暮らしていました。
伝統芸能の世界は、普通は家元制度があって、大人になってから入り、出世するのは難しい。ところが、鼓童は自衛隊を辞めてきたり、元美容師だったりといろんな人がいる集団で、自分にもチャンスがあるように思われました。
大学院進学を薦めてくれた大学の教授は呆れ、父はお前はヒッピーになるのかとガックリきて、一筋縄ではいきませんでしたが、卒業論文を書き上げて佐渡に渡りました。
僕は、研修生一期生として参加を認められました。毎朝4時半に拍子木がカンカンカンと鳴り起床です。起き抜けに吹雪でも10キロ走る。木造校舎を全部水拭き。それから、朝から晩まで太鼓を叩いて、次に笛、それから三味線、さらには尺八。毎日、練習、練習、練習の日々でした。
研修生時代、給料なんてないけど、食べれて寝れればいい。夢中になって夢を追って楽しかった。鼓童『KODO』が世界的に有名になりだしていた頃でした。実は同期には、スイス人やドイツ人、アメリカ人、イギリス人もいました。
僕は最終的に、鼓童のメンバーとして笛を担当することになり、10年間世界の大ホールで連日「ブラボー!」をいただく日々になりました。修行も、素晴しい経験も、鼓童とそのスタッフ、ファンの皆様のおかげ。心から感謝しています。
―ところが、さらに重要な転機が訪れますね。
丁度、鼓童に入って10年が過ぎようとしていた頃でした。公演先に、突然母から電話が入りました。僕が大好きだった父が、倒れたというのです。当時の鼓童は連日連夜、観客満員の公演が続いている最中でした。演出家に相談しますが、代わりを立てる訳にもいきません。ステージで元気に笑い、ホテルで泣きながら父に手紙を書く日々。どうにかこうにか、父の死に際には間に合ったのですが、僕の胸に何かぽっかり穴が空いてしまいました。親の死に目に会えないほど大事な仕事なんて、本当にあるんだろうか。何か、僕の足元が、揺らいでふらふらしている妙な心地がしていました。
父の葬儀を終えて戻ったリハーサルで、事故は起こりました。僕の右の耳を、共演するロックギタリストと巨大な太鼓のバット打ちの爆音が襲いました。その瞬間、僕の右耳はすさまじい痛みと共に、モコモコした妙な音しか聞こえなくなりました。その日から、ちょっとした音でも頭をつんざく激しい痛みが走るようになりました。きっと、父の一件のこともあって精神的にも参っていたのが重なったのでしょう。もう音楽どころではありません。僕は、鼓童を退団せざるをえなくなったのです。
―鼓童を退団した後、どうなったのでしょう。
耳と頭の痛みがどうしようもなく、なにもできないので、2年ぐらい佐渡で、ただただうずくまっていたような気がします。
海にいる時だけ、少し楽になりました。海の音は、本当に優しかった。そのうち、僕の前に虫や鳥が飛んでくる。よく見ると、足が一本ないものもいる。だんだんと、周りを見ていくと、そんなのが大勢いて、みんないろいろ抱えながら自然の中で必死に生きていることに気付く。僕もこの体で一生懸命生きて行けばいいんだな、と素直に思いました。僕が悩もうが苦しもうが人生を楽しもうが、陽はのぼり沈んでいく。海が、大自然が、僕の悩み事をどんどんちっぽけなものにしてくれた気がしました。
この海の音のような静かな音楽だったら、もしかしたら僕の耳でもできるかもしれない。そんな気がしてきました。恐る恐る、僕は笛を手に取りました。大丈夫か、大丈夫か、とそーっと音を鳴らし始めました。不思議と、そっと優しく吹くと、僕の笛の音は耳に痛くなかった。海の音のような、自然で心地よい音楽を創って吹いていけばいいのかもしれない。光が見えた気がしました。あの時から、20年が過ぎようとしていました。
―それから、20年。追及してきた音楽について教えてください。
そうですね、もう20年も経ちますね。右耳は、相変わらず高音が聞こえませんが、聞こえない事に慣れました。痛みもだいぶ和らいできました。
やっぱり僕の音楽の原点は、佐渡の海の音、風の音、鳥の声等、自然の音なんだと思いますね。自然でシンプルな音、優しく心にすっと入る音色を追及し続けているように思います。そして、僕の音楽で心が癒され、楽になり、眠れるようになった、元気になった、という話が届くと嬉しくなります。医者にはなれなかったけど、笛の音で人の心が治るなら、最高ですね。
おかげ様で、これまで、世界30カ国で2,000回を超える公演をさせて頂きました。昨年は、東京ドームの日米野球のオープニングセレモニーで、空手の世界チャンピオンの宇佐美里香さんと共演させていただいました。天皇皇后両陛下の御前演奏、ミラノ万博出演も務めさせて頂きました。
通常の公演では、ピアノとのデュオで独自の音世界を深めています。最近は、太鼓とも共演できるようになりました。特に鼓童でずっと苦楽を共にしてきた金子竜太郎さんの太鼓とは、阿吽の呼吸です。
また、子供達と「鳥笛ワークショップ」も各地でやっています。山に行って、竹で鳥笛を作って鳥を呼び、鳥と会話して遊ぶんです。子供達が、目の色を変えて盛り上がるのが毎回楽しみですね。
「篠笛講習会」は、全国各地で大好評。神楽ビルのレッスンも募集するとすぐ一杯になり、数ヶ月待ちの人気講座になっています。丸の内朝大学でも開催させていただきました。
日本の祭りに欠かせない笛吹きがどんどん減っている現状を危惧し、一人でも多く、祭りを支える笛吹き、指導者が増えることをお手伝いできたら、と思って全国各地で教えているんです。そして、鼓童の研修生にも私の笛の技術を伝えて応援しています。
―最後に、今月開かれる東京公演について教えてください。
僕は、ニューヨークでの和太鼓との出会い以降、大好きなジャズを避けてきました。でも、篠笛で自分流のジャズをやることこそ自然なんじゃないか、と思うようになりました。そこで、来たる12月24日に東京・六本木で『JAZZ SHINOBUE』という企画をしました。滅多に聞けない、素晴しいフルメンバーとの狩野泰一独自の篠笛ジャズコンサートです。是非、聞きにいらしてください。お待ちしています!
(※ 2015年12月16日現在、六本木での14日のコンサートは終了いたしました。)
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Dec 16, 2015 Categories:
篠笛
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Column
狩野 泰一さんプロフィール
かのう やすかず
1963年東京生まれ。
13歳でドラムを始め、一橋大学在学中にライブ活動を開始する。
1987年「鼓童」のメンバーになって以来、カーネギーホールを始めとする世界20カ国で1000回を超える公演に参加し、1997年に独立。
佐渡島に暮らしながら日本古来の「篠笛」の可能性を広げ、2005年ヤマハからメジャーデビュー。
CD9枚、教則DVD1冊、楽譜集1冊、写真エッセイ1冊を出版している。
これまで世界30カ国で2,000回を越える公演をし、映画、テレビ、演劇等の音楽プロデュースも手がけている。
天皇皇后両陛下の御前演奏、ミラノ万博2015出演も務め、東京ドームで空手の世界チャンピオン宇佐美里香とコラボ他、南こうせつ、サリナ・ジョーンズ、中西圭三、河村隆一など多くのアーティストと共演している。
狩野 泰一さん公式サイト
https://www.yasukazu.com